昭和五十六年八月十三日 朝の御理解
御理解第四十八節
「わが子の病気でもかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる」
これは病気、子供の病気という事を例にあげておられますけれども、これは子供の病気という事だけではない。総ての事にその心、放っておくというのではない、放っておくような心になってすがってやれとこう言うんですからね。
私はずいぶんいろんなすったもんだで、結局当時の椛目の私、大坪を学院に一年やらなければならないという働きが、もうどうにも仕様がない程におこって、まあ御信者方も何回も何回も夜を徹して、親先生を私を学院にやるかやらないかと、というような問題が起こりました。伊万里の竹内先生なんかは、あのう金光教というそれを返上したら問題ないのだから、のう金光教ではなくてもいいですと。親先生はやっぱり椛目に居って頂かにぁ、一年間も外にやるわけにはいけないというような説もありました。え、正義先生なんかは反対でしたが、もうとにかく私がついて行きますから一年学院に行って下さいという説もありました。そういう時のこれは私のまあ心境ですけれでも、“その事は神にまかせて屠蘇の座へ”というのがござおます。その事は神にまかせて屠蘇の座へと。ね、これは丁度元旦の事なんですよね。もう右とか左とか言わずに神様におまかせして、そしてというのであります。ね、おかげで学院の試験を受けにまいりました。試験は通りましたけれども、体の方がはじめてその時、私が糖尿病である事が分かり、肝臓・糖尿病が悪い。丁度その年の学院生の中に肝臓で亡くなった人がありました。学院で。そんなふうで神経を非常に使っておられた時代ですから、これは学院に一年も入れるわけにはいけない。糖尿病であるから、そんな糖尿病の食事を学院でまかなうわけにはいけない。出けない事になったんです。ね、そしてまあ、そんな事ではいけないと言われておった検定を許されて、おかげで学院に行かんで今日までおかげを頂いておる。ね、その事は神にまかせてという事。所がその事を自分で右・左にしよう、ああしようこうしようという、ただあのう、ここん所はまかせるという事は放任するという事じゃない。今日の御理解で言うならばね子供がしんしょう言うて親の言う事を聞かん時に「もうあんたんようなもんはかまわんよ」とこう言う、そういう心になって神にすがってやれとおっしゃる。ですからこれは子供の病気という事だけではないという事。そこん所がね、日頃本当に教えを忠実に日々頂き、言うなら教えが支えとなっての生活でなからなければ、いざという時にままよと言う心になりきらんです。ね、そしてあれよこれよと念をうってそれでもいけんから、ようやく神様というような事になったんではね、私はお徳が受けられないと思う。ね、日頃のねその教えを忠実に頂くという事。本当にね教えを楽しみに頂く人達、喜びをもって頂く人達であって初めて信心すれば一年一年位がつくとおっしゃる。一年一年有難うなってくるとも仰せられます。
昨日は美登利会でございましたから、いわゆるもうずいぶんになりましょうが、朝参りの婦人の方で出けた会なんです。昨日皆さんの発表、まあ本当にすばらしい、やはりその朝参りでも何十年間続けておられる方達ですから、そして合楽で頂く教えに基づいての生き方、いうなら合楽に傾倒しきっておられる方達のまあ集いでございますから お話も実にすばらしい。ずっと熊谷さん、原さん、秋山さん、波多野さん、安東さん、五人の方が発表されるのを聞かせて頂きながら、それこそ感心しながら聞いておったんですけれども、ふっと私の心の中に、もしこの人達が合楽に御縁を頂いていなかったらと思ったんです。今五人の方いっちょ思うてみて下さい。そりゃあそれぞれにやっぱ一根性持った方ばっかりです。もし信心がなかったら、この人達がどういうような未路をというと語弊があるかもしれませんけどね、どういう年寄り方をしただろうかとね、もう皆信心のいわば喜びで一杯の体験の発表でした。
そしたら神様からね、あのう「征く」という字を頂いたんです。あのう行にんべんに正しい。ね、この方達が合楽に御縁を頂いて数十年間朝参りを続けて来た。椛目・合楽を通して、そして教えを頂く事をも楽しみとし、喜びとしての信心の方ばっかりなんです。それで今日の信心のこの喜びがあり、今日のおかげがあるんだと。言うならば正しい行をして来たという事なんです。信心で、お道の信心で正しい行をと言うたら、ただ参る事だけはそうにゃあ参った。御用だけは大変したと言うのじゃないです。いかに教祖の御教えに忠実であったかという事なんです。正しい行なんです。ね、正しい行を本気でさせて頂かないとね。そりゃあ、なら合楽に御縁を頂いとるから皆そういう喜びが、いわゆる一年一年有難うなっていくというようなおかげを頂いておるかというと、そうでもない方もあるのです。一年一年年を取ってくるに従って、淋しゅうなって不平不足で暮らしておる人もあるんです。
これはただ一生懸命に熱心に参ったということだけで、教えに取り組んでない。正しい行が出けてないからです。ね、その正しい行もです、いかにもこう頂いておるようであっても、いよいよの時に、いうなら迷うたり、いよいよの時に、いわゆる神様にまかせきらなかったり、ここが一番大事な所なんです。大分こう教祖に基づいた生き方をしよるけれども、いよいよ何かという時にはもうそこに迷いがおこっとるというのじゃなくて、いよいよの時にはね、それこそ神にまかせて屠蘇の座へと言うような、これはまあその時の私の信心の心境ですけれどもね、まかせられる、そしておかげを頂いて体験を積んでおるから安心が生れ喜びが生れという事になるのじゃないでしょうか。ね。
昨日もある大変偉い先生の歌集が出た。それを私この頃、目がこんなにうすくなりましたから読めませんから恒行先生が読んで、そして私に話してくれます。それにその先生が病気をなさった時やら自分の子供が病気をした時に、まあ言うならば親の心境というか慌てるというか、もういわば合楽で言うならば、もうそういう時には神様を取りはずした心の状態の歌がいくつもこう出てくるというわけなんです。この先生は亡くなられましたけれども、ね今の金光教の信心の中にです、ね、それこそ横の線にの信心は出けておっても縦の信心が出けてない。ね、言うならば神様の恵み。“神のめぐみの中に神ありて”という。これは横につながるめぐみというものは、もうそれこそ一滴の水でも一粒の米んでもというわけですけども。ね、これは信心を頂かなければ頂けないというおめぐみ。それを普通では奇跡とか不思議とかこういうわですけれども、そういうおかげはどういう時に頂くかというと、私共がままよという心をおこして神様にすがる。そこに生れてくる体験。これをいうなら縦の信心縦の御信徳。横の御信徳が分からせて頂いて、今教団で一番欠けておるのは、この縦の御信徳という事が非常に軽く見られるようになった事だと思うですね。その時にままよという心になりきらないと言う事、そこに言うならば神様の生き生きとした、生きた働きを示して下さる場がなくなってしまう。神様を狭い所へ押し込んでしまっておるというような感じが致します。
合楽では日々その事がおかげとして現わされているというわけですね。そこを頂かせても、得れる信心。いよいよ言うなら力が受けられるという事柄をね、そのチャンスをのがしてしまっておるという事です。一番大切な所を逃しておる。ね、もうままよという心になって神様にすがってやれとね。
さあ子供が病気だからと言うて慌てたんではおかげにならんと。
昨日関さんの発表があっとりましたが、娘さんが久留米の方でパ-マ屋さんをやってます。まあめったに行かんけれども丁度お出られた所に孫達が遊んでおった。ほっとあのう気がつかれたら、あの塵かごん中で火が燃え上がっとる。孫がちり紙にライタ-があったげなん、ライタ-で火をつけとる。そして火がついて自分の手がもう熱うなったもんだから塵かごん中に入れとる。それが燃え上がった所であった。そん時にもう生神金光大神様となえて、一時ちょっとであったけども御祈念させて頂いたら心が落ち着いたと言われる。それから落ち着いて処理をさせて頂いた。もう本当に、もし私が行っていなかったら、そんまた小さい孫がおばあちゃんは僕の命の恩人と言ったという。本当にそりゃあ火事になって焼け死んどったかもしれませんもんね。町のああいう、言うならばたきつけのような家ばっかり並んでおる所でね。それこそちり紙に火をつけた、それが塵かごに入れられた。塵かごがこうやって燃え出したと、そういう時にです、いうならばどっこいとそれを受ける心を作ろうとするそこなんです。慌てふためいてないです。ね、だからそれを言うならば無事処理する事も出けたという発表しとられましたがね、決して子供の病気という事だけの事じゃない。いつの場合でもどんな時でもね、そこに一つの心ん中にゆとりというか、それをなら日頃信心の教えというものがです、いわゆる正しい行が出けてないと慌てます。ただ参りよります拝みよりますだけではいけん。ね、そして年を取るに従って一年一年有難うなっていくという、私は信心を頂かせてもらわなければならん。
昨日五人の方達の発表を聞かせて頂いて、五人が五人とも数十年間朝参りを欠かした事がないという一つの根性ですかね。それが貫いておられるだけではない。教えを行ずるという事においても、第一人者の方達ばっかりですけれどもね、なるほど信心の喜びがあのようなふうに発表出けるという事は有難い。かと思うと庁や年を取るに従って淋しゅうなっていく。そこにゃあ愚痴がある不足が、たとえ合楽に御縁を頂いておっても正しい行に取り組むか取り組まないかという所でね、その答えが出てくるんです。
今日は四十八節を聞いて頂きました。四十八節、いつも広がりに広がるおかげのチャンスというものはいつでもあるんだと。ね、その日々の中にいつでもあるそれを、言うならば人情、人間心ばかりでそれを処理しようとしたり思うたんでは、そういう時に、神様にへ先ず一番に心が向かう信心を頂いとかなければ、四十八節にはならない。いつもおかげを頂けれるチャンス。いつもお徳を受けるチャンスはもう日常の中に、些細な事の中にでもあるという事です。ね、いよいよん時にゃあ本当にままよと、どん腹のすえられるね、信心を頂きたいもんですね。
どうぞ